徳川秀忠が発令した『一国一城令』というのは、幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためのものであった。内容は、大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城はすべて廃城にするというものであるが、次の基準によってである。
(ここでの令制国とは、律令制での地方行政区分、旧の国名である)
・一つの令制国を複数の大名で分割して領有している場合は、各大名ごとに一城
・一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は、各令制国ごとに一城
この結果、大名の家臣たちは城を持つことが出来ず、領主の城内や城下に居住することになった。また、1万石以下の領主は城を持つことが許されず、陣屋と呼ばれる屋敷に居住し、領地支配を行った。織豊時代には約3000あったという城が殆ど破却され、約170(陣屋を入れても約300)にまで激減したという。
多くの城が破却されていく中で、一国一城が発令された4年後の1688年徳川秀忠の命令で新設の明石城が完成、1689年に完成した福山城と共に西国大名をけん制するためという特異な性格を持つ城として築城された。海辺の近くを西国街道が通り、それに対して睨みを利かす位置にある城といえる。
明石城の場合、確かに西国街道を威圧するかのように南面には堂々とした石垣があるが、その内側には剛ノ池という大きな池を擁した庭園のような広場があるなど、徳川時代という太平の世のふさわしく、現代にも通じるどこか優し気な印象すらする城です。
今回、明石城の城下を巡り、城内・剛ノ池あたりで桜を愛でつつの宴を楽しむという企画です。みなさんの参加をお待ちしております。