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2/19 作成

R7近畿支部2月 刀田山と念仏山Pw計画(第2報)
これ以前の連絡・案内
これ以降の連絡・案内
さきほど明石に雪が舞ったので、天気予報を見ると、Aランクで大丈夫のよう。
鶴林寺の梅もこの寒さでまだ蕾とのことです。


第2報では、念のため「実施の判断」を入れました。これに該当しないように祈るばかりです。
今回は、歴史散歩の感が強いです。いろいろなものや、時代を感じて歩くことにしましょう。最後の鶴林寺と教信寺の補足事項も載せました。
実施日 R7年 2月26日(水) 雨天や悪条件の場合は中止します
実施の判断
実施可否の判断を次の通りとします。
気象台 2/25(火曜日:前日)午前11時以降発表の天気予報で、次が該当するときは中止とします。
・兵庫県南部の
実施予定日当日(2/26(水) 6-12時 または 12-18時 の降水確率が50%(含む)以上の時
その他、実施が無理と判断される事象が起きたとき。
なお、中止の時は参加者予定者にはメールで連絡します。
また、一度中止と判断した後では、以降の天気が回復が認められても実施はありません。
場 所 西国街道周辺(東加古川~加古川)
地形図:和泉式部供養塔を中心とした 約100年前の同所の地形図
参加者 _11名(2/19現在)_ 〆切 2/20(木)
集 合 10時15分 JR加古川駅改札口
(加古川駅前 南③乗り場から10:28発の「かこバス:海洋文化センター行き」に乗ります)

アクセス
・JR京都・神戸線
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京都 |
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高槻 |
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茨木 |
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千里丘 |
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新大阪 |
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大阪 |
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尼崎 |
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三ノ宮 |
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明石 |
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西明石 |
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加古川 |
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新快速 |
姫路行き |
8:15 |
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8:30 |
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- |
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- |
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8:41⑨8:42 |
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8:46④8:50 |
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8:558:56 |
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9:13 |
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9:28 |
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9:31 |
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9:42 |
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快速 |
網干行き |
8:05 |
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8:25 |
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8:31 |
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- |
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8:38⑨ 8:39 |
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8:43④8:44 |
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8:49 8:50 |
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9:13 |
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9:36 |
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9:44 |
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10:05 |
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新快速 |
姫路行き |
8:30 |
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8:46 |
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- |
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- |
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8:578:58 |
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9:019:06 |
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9:11 9:12 |
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9:29 |
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9:44 |
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9:48 |
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9:58 |
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普通 |
西明石行き |
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始 |
8:42 |
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8:50 |
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8:53 |
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9:03⑦9:04 |
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9:08⑥9:10 |
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9:17 9:17 |
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9:50 |
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10:24 |
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10:28 |
止 |
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快速 |
加古川行き |
8:25 |
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8:48 |
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8:55 |
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- |
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9:06⑧ 9:07 |
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9:11⑤9:15 |
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9:21 9:22 |
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9:45 |
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10:11 |
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10:19 |
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10:35 |
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新快速 |
姫路行き |
8:43 |
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8:57 |
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- |
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- |
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9:08⑨ 9:09 |
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9:13④9:15 |
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9:20 9:21 |
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9:38 |
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9:53 |
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9:54 |
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10:07 |
解 散 JR東加古川駅 16時半ころ
コース 加古川駅=(かこバス)=刀田山鶴林寺(梅林・寺内参拝)~具平塚古墳~(高射砲道)~(西国街道)~和泉式部供養塔~
~てんじく(中華で昼食)~念仏山信教寺~古代山陽道駅家(ウマヤ)跡~具平親王神社~野口城跡~野口神社~
~イオン加古川(トイレ休憩)~伝、足利義氏(足利宗家三代目当主)の五輪塔~東加古川駅
服 装 冬から春の街歩きの服装(ただし温度調整可能な服で)。ウォーキングシューズ
装 備 ヤッケ、セータ、防寒着(休憩時)、マスク(予備)、タオル、傘、飲料、白湯
オプション
・未定
その他
・拝観料
鶴林寺(800円)ホームページ
信教寺(無料)ホームページ
・昼は断食またはパン1個程度(鶴林寺公園あたりで)で我慢し、
やや遅い昼食をてんじく加古川野口店(営業を確認しました)で食べる予定です。
(ただし、物価上昇の折りなのか、メニューが出ませんが、出前メニューは出ました)
・鶴林寺での興味により拝観時間が長くなった時は、一部歩きをバスで代替します。
・まだまだ未定部分があるので、今後もHPをご覧ください。
(そのときは必ずを押してください)
企 画 加藤(11期)
申し込み 加藤(11期)まで 参加申込み〆切り 2/20(木)
←なるべくならこのメールをお使いください。
↑
そのときは、正しく送信されたか、ご確認ください
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播磨名所巡覧図会より「刀太山鶴林寺」 (堂の字は当時のものではなく、今の建物と合わせてみました)

現在の鶴林寺
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鶴林寺は「播磨の法隆寺」といわれるほど東播磨では有名ですが、一方、西播磨には法隆寺の荘園であった鵤(イカルガ)に「斑鳩寺」があります。その関係から斑鳩寺は法隆寺の支院でしたが、室町時代に斑鳩寺は焼け、江戸時代の再建に関して天台宗となりました。天台系の僧により再建されたので、当然の理でしょうか。
鶴林寺が天台系になったのは、寺の歴史から見ると相当に古そうである。このことは現代のわれわれから見ると「聖徳太子」ゆかりの寺なのに何故法隆寺ではないのかと不思議に思ってしまいますが、太子信仰が盛んであった平安から室町の頃には、法隆寺と四天王寺ともに太子ゆかりの寺であり本家争いをしていた感があったらしいのです。鶴林寺自身が天皇より鶴林寺の名称をもらうまでは、「四天王寺」であったということから、天台宗との結びつきは強いのでしょう。
その後、江戸時代には、古事記を絶対化した国学という宗教にまで影響を与える研究が進み、それがために外国からやってきた宗教を導入・保護した太子の評価が低下し、そのまま明治維新を迎えることになりました。この時期が鶴林寺にとっても受難の時代だったのかも知れません、ただ、田舎の伝統的な習慣から民衆の信仰はそこまで低下せずにある程度は維持されたと思われます。
ところが、明治になって、日本の文化を発信するためにその依頼されたのが、例のフェノロサとその通訳の岡倉天心。彼らが秘仏であった夢殿の救世観音を政府権力でグルグル巻きの像を見たところ、その素晴らしさに驚き、それを受けた政府もそれに追従し「太子は日本の誇り!!」となり、かつ夢殿が法隆寺に属していたがために、法隆寺は太子信仰の本家へと復権を果たしたとのことです。
戦後の長い間、聖徳太子が高額紙幣の絵柄に使われていたせいか、太子を肯定的に感じるのは私だけではではないようです。
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播磨名所巡覧図会より「念仏山教信寺」

信教寺の由来
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実は、信教寺も今は天台宗なのですが、当然のことながら信教を敬愛したのは浄土教系の僧でした。よって、江戸時代までは浄土宗の寺だったのに、明治維新の廃藩置県などで天台宗になったそうです。何がそうさせたのか? やはり、信仰というより経済の優勢を感じてしまします。ちょうど隣に野口神社があります。主神は日吉神、比叡山の守護神です。これも神仏混淆の宮でしたが、神仏分離でどうなったのでしょうか? なんだかこれと関係がありそうだと推測していますが、推測以上は調査も何もしていません。
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